昨夜は九時過ぎに帰った。デリバリーは頼まず、冷蔵庫に残っていた二品で、ひとり分の夕食をちゃんと作って食べた。写真を上げたら、友人からコメントが来た。ひとりなのに、ずいぶん手をかけたね。
この言葉を何年も聞き続け、ずっとどこか腑に落ちないでいた。含意ははっきりしている。手をかけるのは客人のためで、ひとりなら、手をかけるに値しない。
私たちの食卓の文化は、本質的に社交の装置である。丸い卓は全員が互いに取り分け合えるようにあり、席には上下があり、乾杯には順序がある。食事は共謀された演出だ。その文法のなかに、ひとりで食べるという行為の居場所はない。だから飲食店ではひとり客はカウンターに案内され、火鍋や焼き肉、大皿料理には「複数人向け」の看板がなくとも空気が流れ、皿の大きさすら「ひとりで来るな」と言っている。テーブルに一人で座ると、店員の目には少しばかり同情が混じる。まるで失恋したばかりのように。
けれど現実は、ひとりで食べる回数が増える一方だ。単身赴任、残業、転勤、出張——一年に何百食もひとりで食べていない人間がいるだろうか。それなのに私たちは、いちばん多い食事をいちばん雑なものにしてしまった。「手軽にすませる」「なんでもいい」がその常套句である。すませるというのは、この食事には手をかける価値がないということであり、ついでに自分自身も済ませてしまうということだ。
この論理には賛成できない。『論語・郷党』に「食は精を厭わず、膾は細を厭わず」とある。もてなしの体裁と解されがちだが、まず第一に、これは食べることそのものに対する孔子の態度なのだ。素材はよく、手間はきちんと。飯をきちんと作ることに、観客はいらない。
とはいえ、「ちゃんと食べる」をもう一つの方向へ滑らせてはいけない。近年「ひとり食事」は商売に仕立てられた。ひとり用の高めのセット、写真用の木のトレイ、フィルターをかけた盛り付け。それもまた演技であり、観客が同席者からSNSに移ったにすぎない。ひとりで食べることの本当の安さは、誰にも見せる必要がないことにある。麺が食べたいなら麺を茹でればいい。卵を焦がしても誰も眉をひそめない。誰も見ていない場所でこそ、手をかけなくてよい。手をかけなくてよい場所でこそ、こだわりはほんとうに自分のものになる。
私のやり方は大したものではない。ただ、すませるのをやめただけだ。週に二、三食はちゃんと作り、残りは雑でよしとする。作るあいあの半時間、スマホは居間に置いたまま、包丁の音を聞き、火に鍋をかけてからはその場を離れない。半年続けて気づいたのだが、その半時間は一日のなかで、完全に自分のものにできる数少ない時間だ。うまいかどうかは二の次で、大事なのは「給餌されるのを待つ」状態から、少しでも主権を取り戻したことである。
結局のところ、ひとりで食べるのは恥ではない。ざっくり済ませるのがもったいないのだ。きちんと一食作って食べることは、いちばん安い自己確認である。今日は無駄に過ごしていない、明日も続けられる——そう自分に伝える。
卜世 撰

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