昨日、出かける前に天気を見た。「降水確率六十パーセント」とあった。私は玄関で三秒立ち止まり、傘を置いた。
途中まで歩いたところで、雨が来た。大した雨ではないが、肩を濡らすには十分だった。夜、その話をすると、相手は言った。予報はほんとに当てにならない。私は言った。六割と言っていたじゃないか。彼は一瞬詰まって、あんなの誰がわかるんだ、と返した。
このやりとりは何度も経験している。雨が降るたび、ほとんど毎回再演される。
人が天気を見るやり方は面白い。六割は「たぶん降らない」と読まれ、三割は「降らない」と読まれ、九割は「降る」と読まれる。あの百分率は頭の中でスイッチ一つに圧縮され、オンかオフかしかない。中間の大きな一帯は、そっと削除される。そして結果が思わしくないと、振り返って予報のせいにする。予報は嘘をついていない。私たちがその言葉を通訳し間違えたのだ。
なぜ通訳を間違えるのか。人は宙ぶらりんに耐えられないからだ。確率とは、二つの答えを同時に握っていなければならない思考だ。降るかもしれないし、降らないかもしれない。だから傘を持ち、しかし予定も取り消さない。ところが多くの人は、出かけるその瞬間に一つしか握らない。二つ握ることは、自分が判断を誤るかもしれないと認めること――人が最も認めたがらないことの一つで、とりわけ小さな事柄では。
もう一層下ると、「当たらない」と愚痴るのは、実に安価な免責声明だ。もし予報が「必ず降る」と言っていて、傘を持って出て降らなかったら、損をした、騙されたと感じる。傘を持たずに出て降られたら、少なくとも責める相手がいる。愚痴は「私が判断を誤った」を「あれが私を騙した」に書き換え、コストをたちどころに外へ移し、自分はきれいなままでいられる。
この種の通訳違いは天気の上だけではない。医者がこの手術の成功率は九割だと言えば、家族は「問題ない」と聞く。運用担当が年率六パーセントを見込んでいると言えば、客は「毎年六パーセント」と聞く。友人が「なるべく行く」と言えば、招いた側は「来る」と聞く。言葉のうち不確実さを帯びたものは、伝わる途中で平らに削られ、確定になってしまいやすい。聞く側が愚かなのではない。確定は人を安心させ、安心は正確さよりずっと癖になるのだ。
これを道徳の問題にしたいわけではないし、誰かを責めるべきとも思わない。人が確率を嫌うのは天性で、修養で変えられるものではない。だが変えられることが一つある。自分がそう通訳してしまうと知っているなら、一手を残しておくことだ。傘を一本持つのは高くない。契約書の「期待収益は約束を構成しない」という小さな一行に十秒費やすのは高くない。友人の「なるべく」を心の中で「来ないかも」に換算し、空席を一つ残しておくのも高くない。どれも小さな動作で、余計にすら見える。だがそれらが買っているのは、まさに「万が一」だ。
私自身、ここで痛い目を見たことがある。ある年、ある企画の工期を組むとき、どの段階も最も順調な見積もりで上に上げ、一つが一つに噛み合って、見た目は美しかった。その後のことは推して知るべし。三段目で詰まり、後ろが総崩れになり、納品は一か月延びた。後から振り返れば、どの段階も不意打ちではなかった。どの遅れも常識の範囲内だった。ただ私はそれらをすべて、いちばん良い側で足し上げたのだ。あれ以来、自分に一つ鈍くさい規則を立てた。「たぶん」「はず」「見込み」のつく話は、一律に最悪の側で備え、最良の側で期待する。前半はコスト、後半は気持ちだ。
天気予報そのものについては、この数年ずっと当たるようになっていて、私の子どもの頃よりよほど頼りになる。それが浴びている罵りは、たいてい的中率の問題ではない。私たちが、それが言えない言葉を言えと要求しているのだ。保証を求めれば、それは間違えたとき罵られるしかない。確率を求めれば、それは選択権をこちらに返してきている――傘を持つかどうかは、あなたの問題だ、と。
あの日私は半身を雨に濡らし、帰って着替え、損をしたとは思わなかった。六割降ると言われて、私は残りの四割に賭けて、負けただけだ。賭けに負けて勘定を認めるほうが、振り返って予報のせいにするより、よほど体裁がいい。
卜世 記

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